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塩 にとってのふくしま

 初めて僕が ふくしま を訪れたきっかけは第二志望であった大学のオープンキャンパスに行くためであった。当時16歳の僕は ふくしま に対して「桃とか日本酒がおいしい県」といった程度の、曖昧な印象を持って新幹線のソファに体を預けた記憶がある。そんな僕が最初を訪れた際に受けた印象は意外にも「住みやすそうだし、『都会』だな」といった具合であった。当時の僕からすれば福島駅は僕の出身である山形の駅よりも規模が大きく見えた覚えがある。その迫力は駅前にそびえたつデパートビルにも同様に与えられたので、福島市は都会なのだと僕は納得した。その一方で福島市を包み込む雰囲気は窮屈さではなく、むしろ心地のいいものであった。山から吹き付ける風は強かったが、その風の中に穏やかさを見出したのかもしれない。

 僕という人間について説明すると、コーヒーとかお酒が好きな普通の大学生である。金曜の夜をお酒で流し込み、日曜日に二日酔いと月曜日への憂鬱な気持ちを迎え入れながら課題をするような普通の大学生である。一つ特徴を記入するとすればカフェとかバーとかを巡ることが趣味であることだろう。

 さて、センター試験を失敗した僕は第一志望を諦めて第二志望の大学に変更し、なんとか合格することができた。合格時はコロナ禍の最中だったので、大学生前期は実家の山形でオンライン授業を受け、秋ごろにようやく福島市に住み始めた。福島市に住み始めてしばらく経った頃に僕は「おや、そこまで『都会』ではないのでは?」ということを悟ったのである。この当時は ふくしま の魅力にまだ気づいていなかったのだと認めざるを得ない。

「オープンキャンパス後に初めて訪れた ふくしま のカフェ『珈琲グルメ』」

 よく福島に住む人は ふくしま のことを「なにもない」と評する。時には「山形市のほうが都会じゃないか?」という声も耳にする。一方で山形市民は「福島市のほうがよっぽど都会だよ。」とつぶやいているが……。隣の芝生は青く見えるという言葉があるが、どうやら隣の都道府県は都会に見えるようである。

僕は福島で2年半住み始めて気づいたことは2つある。1つは「都会ではない=なにもない」といった観念が僕たちの精神に固定されているのではないかということである。

 僕は一人で旅をするのが好きで、知らない街を歩くことになんとも言えぬ充足感を得られる。その知らない街とは必ずしも都会とは限らない。しかし、この知らない街を歩くという行為に満足感を覚えるのは、その街にしかない「何か」が僕を包み込むからだと思う。「何か」というのはそこに住む人の魅力や街並みなど色々な要素が含まれていると思う。流動的な時の流れを触媒として、色々な要素が複雑に絡みあって醸し出されるその街独自の雰囲気のことである。その雰囲気は初めて訪れた街においても感じ取ることができ、街の道を歩くだけでもぼんやりとではあるが汲み取ることができる。歩きを続けると、その雰囲気を特に発信元のお店を見つけることができるので、実に楽しい。宝探しゲームに没頭する子供が抱くような胸の高鳴りに気づく。

「何か」は ふくしま も例外ではなく、確実に存在する。僕らの住む街には新しいものはないかもしれない。だが、 ふくしま には ふくしま にしかない街並みと情景、お店や人で満たされていることは確かだ。誰かが再現することは決してできない。

 「なにもない」という言葉はかなり残酷な言葉だと僕は考える。ふくしま は本当になにもないのだろうか、いやそんなはずは決してあり得ないはずである。例えば周囲を見渡すだけでも十分に証明でき、飯坂温泉とかレトロなカフェといった時の流れでしか生み出すことのできないあのノスタルジックな雰囲気やお酒やコーヒーのおいしさを共有しようと日々努力する人が ふくしま にはいる。それを「なにもない」と断定してしまうのは彼らの努力や昔から作り上げてきた美しさ、つまりは「何か」を切り捨ててしまうのではないかと僕は思う。端的にまとめるとすれば、非常にもったいないのである。

「惜しくも閉店した老舗の洋食店『菊原キッチンカロリー』」

 2つ目は ふくしま のイメージである。僕が抱く ふくしま のイメージは「変化を迎える都市」だと思う。具体的には「『なにもなかった』と思っていた福島市はこれから何か変わるのではないか」といった期待である。9月に行われた「THE COFFEE’S」は飯坂温泉の旧堀切邸にて行われたイベントで、ふくしま に縁があるロースタリー・カフェがあらゆるコンテンツが融合した大規模なコーヒーイベントである。あのイベントが築き上げた物語は ふくしま に大きな変化を生み出したのではないか。来場者数は4000名を超えたとのことだが、このイベントで4000人が ふくしま にしかないお店や雰囲気の魅力を見出したはずだ。もちろんこのイベントのほかにも魅力的なイベントが開催されている。音楽を中心としたイベントや福島のお酒やワインショップを知るイベントを通じて、これからは「何もない」という僕たちに潜んでいたイメージは「ここにしかない何かがある」都市として変化していくだろう。

 僕の中で ふくしま のおかげで最近変わり始めていると気付かされたことがある。それは感性の成長である。これは僕が意識的に理解したことではなく、僕がたまたま訪れたお店でその無意識の変化に気づいたのである。お店のカウンターで僕が店主さんと「THE COFFEE’S」について話していた時、隣で日本酒をたしなんでいたおじさんがこの会話に気づいたようでふと声をかけた。

「でもねえ君、そのイベントで感性が磨かれたのではないかね?」

とそういわれたときに僕は自分のかすかな成長を認めた覚えがある。その感性が磨かれたということを具体的に説明することは難しいが、訪れたカフェや街並みに注目し、その雰囲気に感嘆したり、ぼんやりとその光景にふけたりすることがここ最近多くなったので、これらの行為を感性が磨かれたとして捉えることにしよう。歩くという行為が感性の成長に少なからず影響を与えたことは言うまでもない。

ふくしま には何度も通いたくなるようなカフェやバー、何度も話したくなるような店主さんや人がたくさんいる。「コーヒーが美味しいから行く。」ということもあれば、「単純に愚痴をぼやきたい」、「暇なので向かう」、「そこにいる人たちと喋ってみたい」、「お店の雰囲気に溶け込みたい」など、僕がお店に向かう目的は必ずしも1つとは限らない。だが ふくしま のお店に向かえば、「何かしら」の発見はあることを僕は知っている。その発見とは、美味しいコーヒー豆や面白い人、人生を変えてくれるような考え方、かなりどうでもいい豆知識など、ありとあらゆる知識や要素がひっそりと潜み、やがて僕たちの前に姿を現すのだと思う。これらの発見があるからこそ、僕はお店にぶらりと訪れることが好きなのである。

 山形で僕が高校から通っているカフェのマスターが「カフェは大人の学校」と僕に説明してくれることがある。僕はこの言葉がとても好きで共感を覚える。「何かしら」を発見したり学んだりできるカフェやバーの存在はたしかに大人の学校として認めることができるのではないかと思う。だからこそ、僕はコーヒーとかお酒を啜る時間を貴重な趣味としていきたい。

 ふくしま がこれからどういう街に進化していくか、明確に予想することができない。しかし、これからの ふくしま は住んでいる人やこれから訪れる人にとって心地の良い、思い出の街として存在しているではないかと思う。

 僕が将来どうなるかは僕自身にもわからない。最近自分の根底にやってみたいことを発見したので、これからはそれに挑戦する予定である。これがどう転ぶかわからないが、ひとまず行動しなければ挑戦という権利すら受け取れない。

いずれにせよ、ふくしま は僕の思い出の街として残り続けるし、ふくしま のこれからを見届けるだろう。これからの変わり続ける ふくしま に妄想を膨らませながら、僕はコーヒーを啜ることにしよう。

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